初等科國史・下

昭和18年3月5日検定 日本書籍 文部省
定価30錢  古書店にて1500円で購入

個人的評価:★★★★★



明治維新の項
日露戰役開戦の項
大東亞戰爭開戦の項
紀元2600年の項


戦前最後の国定教科書.
いわゆる「皇国史観」で綴られている.
織田信長から大東亞戰爭序盤まで.



内容を一部拾い出してみます.

「正親町(おほぎまち)天皇は,雲居はるかに織田信長の武名を聞(きこ)し召し,(中略)
信長は,仰せを受けて感激の涙にむせび,命をささげて大御心にそひ奉らうと,堅く心に誓ひました.」

「かうして,信長が御世のしづめになるやうにとまいた種は,
秀吉によつて,みごとな花と咲いたのであります.」

「御稜威(みいつ)のもとに,大東亞をしづめようとした秀吉は,
一面きはめて孝心に厚い人でありました.(中略)
朝廷では,秀吉の功を賞して,死後,豐國大明神の神號をたまはり,正一位をお授けになりました.
京都の豐國神社に參拜し,また數々の遺物や遺跡によつて,秀吉の志をしのぶと,
今更のやうに,その偉大さに心を打たれるのであります.」

「やがて慶長八年(紀元二千二百六十三年),家康は,征夷大將軍に任じられて幕府を江戸に開きました.
これでコ川氏は,たれはばかることなく,ふるまふやうになりました.」

「ただ,秀吉のはなやかなやり方に比べると,家康の選んだ方法は,きはめてぢみでした.」

「(日本町の発展に際して)しかし南洋には,すでにヨーロッパ人の勢力がくひ入つてゐます.(中略)
その場合,土地の人々は,つねにまじめで勇敢な日本人の奮鬪を,心からたのもしく思ひました.」

「幕府は西國の大名が,參勤交代の時に京都を通ることを,禁じてゐます.
そこで國民の中には,幕府のあることを知つて,
皇室の御惠みをいただいてゐることに氣づかないものが,多くなつて行くといふ有樣でした.
御世御世の天皇は,かうした幕府のわがままをお戒めになるとともに,
つねに民草をおいつくしみになり,また學問をおはげましになつて,
わが國の正しい姿を明らかにするやうになさいました.」

「(天明の飢饉に際して,民草を)天皇は深くご心配になつて,
たみ草に露のなさけをかけよかし 世をもまもりの國のつかさは
とおよみになり,民草の苦しみを救ふやう,國々の大名をおさとしになりました.
幕府がとかく目先のことばかり考へて,その本分を忘れ,勝手なふるまひをしがちであるにかかはらず,
いつもかうした御惠みをたまはつてゐることは,まことにおそれ多いきはみであります.」

「慶應二年の暮れ近く,孝明天皇は,御病のため,御年三十六で,おかくれになりました.(中略)
かしこくも,皇祖皇宗の神靈に,ひたすら國難を除くことをお祈りになり,
萬民をいつくしんで,つねに,その進むべき方向をお示しになりました.
朝廷の御威光は,年とともに高まり,諸政一新の大御業(おほみわざ)も,
まさに成らうとする時に,にはかに,おかくれになつたのであります.
まことに,おそれ多くもまた,悲しいきはみでありました.」



こんな感じです.
なお,最後は,
「私たちは一生けんめいに勉強して,正行(まさつら)のやうな,りつぱな臣民となり,
天皇陛下の御ために,おつくし申しあげなければなりません.」

で締めくくられています.

話は変わりますが,つくる会の教科書への反対意見の中に,
「初等科國史に似ている」というのがありました.
あの・・・全然違うんですが・・・・・・
初等科國史を見ていないのか.つくる会の教科書を読んでいないのか.
それとも日本語が分からないのかな?
慰安婦の証拠とかいって頓珍漢な資料を平然と出してくるからな・・・
ありうる・・・

もしこの教科書が偏っているというのならば,
同じ国定教科書である,中国や韓国の許可書も偏っているという事です.
大抵の国は,自分よりに作りますから.
興味がある人は古書店やネット上で探して見てください.
上巻は未蒐集.


以下,おまけ(?)
巻頭.

神勅
豐葦原(とよあしはら)の千五百(ちいほ)秋の瑞穗の國は,
是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)
(きみ)たるべき地(つち)なり.
宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)(ゆ)きて治(しら)せ.
さきくませ.
寳祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと,
(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)りなかるべし.

(天照大神が,天孫降臨の際,邇邇藝命に下した勅命.)

この教科書は,前述したとおり,小楠公の道を行け,でおわっていますが,
詳しく言えば,第15章「昭和の大御世」の第3節.
「大御世の榮え」の終わりになります.
これは今の教科書でいえば,「これからの国際社会」のようなものなので,
その前の,「大東亞戰爭」の項の最後も転載しておきます.

(大東亞戰爭の戦果を列挙して)
「この間,三國同盟は,一だんと固められて,
獨・伊も米國に宣戰し,日本とタイ國との同盟が成立して,
大東亞建設は,さらに一歩を進めました.
今や大東亞の陸を海を,日の丸の旗が埋めつくし,
日本をしたふ東亞の民は,日に月によみがへつて行きます.
すべてはこれ御稜威(みいつ)と仰ぎ奉るほかありません.」

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