南京陷落を祝ふ歌

作詞者・不詳 海軍軍樂隊・作曲


南京陷落を祝ふ歌

難攻不落の 堅壘(塁)と
敵の恃(たの)みし 南京城
皇軍勇み 行く處(処)
鎧袖一觸(がいしういつしよく) すでに陷(お)つ

見よ抗日の 首府として
贅(おご)る豪華の 幾歳(いくとせ)ぞ
空陸早き 進撃に
金陵いまや 我に歸(帰)す

あゝ空爆の 幾勇士
静(しづか)に眠る 城の邊(辺)に
朝霧晴れて 翩飜(へんぽん)と
御稜威(みいつ)も高し 日章旗

興亡茲(こゝ)に 幾度(いくたび)ぞ
三民の夢 今いづこ
歴史に刻む 榮光に
雪空高し 紫金山

聖戰すでに 月を經て
江南の野に 斃(たふ)れたる
戰友の靈(たま) 呼びさまし
共に叫ばむ 勝鬨を

あゝ南京は 陷(陥)りぬ
抗日の首都 碎(くだ)けたり
正義の光 さすところ
四百餘(余)州も 何のその





 昭和12年8月13日,第二次上海事變をきっかけとして,日支両軍は本格的な戦闘を開始した.
快進撃を続ける日本に対し,蒋介石は首都南京を放棄して,無血開城させようとしたが,
部下の唐生智が,「南京は孫文ゆかりの土地であるから,これを死守しなければならない.」と進言した.
その言葉に感激した蒋介石は,唐生智を南京守備隊5万の最高司令官に任じた.
ところが,日本軍との戦闘が始まると,唐生智は,指揮権を委譲することなく逃亡.
指揮系統の乱れた支那軍は,大混乱に陥り,各々逃走し始めた.
それに対し,督戰隊(逃亡兵を銃殺する任をおびた部隊)が発砲.おびただしい死傷者が出たのである.
また逃げおおせた支那兵は軍服を脱ぎ,便衣兵(ゲリラ兵)となって安全区に潜伏した.

 斯くして同年12月13日.日本軍は,敵首都南京への入城を果たす.
南京を占領した日本軍は,便衣兵の確保を開始.結果南京に平和が戻り,人口は次第に増加した.
日本国民は初めての敵首都の陥落を,提灯行列で祝った.
一方蒋介石は,首都を重慶に移して抗戦を続けたのであった.

 世間では30万人が殺されたとか言っていますが,
そんなことは絶対にありえません.
当時南京は,安全区に20万.守備隊5万.どう頑張っても30万もは殺せませんし,
その後,人口は順調に増えています.
因みに,中立国(と言っても支那よりだった)が管理していた安全区内において,
報告されている殺人は49件.
裏を取っていないので,その内何件が本当かもわかりません.

 いつか,49人でも虐殺だとか言っていた外国人が居りましたが,
だとすると,日本軍は,6週間にもわたって虐殺を続けたのにもかかわらず,
49人しか殺せなかったことになります.
日本軍がこんなに弱いわけはありません.
それとも,支那人は隠れん坊が上手だった,とでも言うのですかな.

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