雪の進軍
永井建子 作詞作曲
何處(どこ)が河やら 道さへ知れず 馬は斃(たふ)れる 捨てゝもおけず 此處(こゝ)は何處(いづこ)ぞ 皆敵の國 儘(まゝ)よ大膽(胆) 一服やれば 頼み少なや 煙草が二本 燒かぬ乾物(ひもの)に 半煮え飯に なまじ生命の ある其の内は 堪へ切れない 寒さの焚火 煙い筈だよ 生木が燻る 澁(渋)い顏して 功名談(ばなし) 粋(すい)と云ふのは 梅干し一つ 着のみ着のまゝ 氣樂な臥所(ふしど) 背嚢枕に 外套(がいとう)かぶりや 背なの温みで雪融けかかゝる 夜具の黍殻 シッポリ濡れて 結びかねたる 露營の夢を 月は冷たく顏覗きこむ 命捧げて 出てきた身ゆゑ 死ぬる覺悟で 突喊(とつかん)すれど 武運拙く 討ち死にせねば 義理に絡めた 恤兵眞緜(じゆつぺいまわた) そろりそろりと 首締めかゝる どうせ生かして 還さぬ積もり |
明治28年の日C戰爭の折,山東半島での雪中行軍に従軍した体験を元に戦後作られた. 歌詞の内容に軍隊批判も含まれる為,最後の部分は「どうせ生きては還らぬ積もり」と変えて歌われることがしばしばあった. 此の歌の作者,永井建子は陸軍軍樂隊の樂長でした. 軍人がこういった詩を書けたのも矢張り明治という時代だったからに他なりません. 近頃の教科書では,戦前は思想や言論の弾圧ばっかりしていた様に書かれていますが,與謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を書いても政府は関知しませんでした. 確かに戦前には不敬罪がありました.大逆事件のようなことも起こっています. しかし思想や言論の弾圧は,支那事變ごろから強くなっていったのが本当です.それまでは,天皇批判以外は概ね思想,言論の自由があったようです. 日露戰爭で総司令官を務めた大山嚴(いわお)元帥は,此の歌を好み,今際の際には枕元で此のレコードを聴いて亡くなりました. |