3時間目
「日露戦争〜此処は御国を何百里〜」



「さて この絵を見てくれ」

 

 

「これはフランスの新聞に掲載されたものだが これを見て何か気付くことはないか?」

「気付くこと?」

「そういわれてもなあ」

「ん〜と…… あ!」

 

 

「こんなところに支那人がいるわね」

「あら 本当」

「確かに居るな」

「シナジンってなあに?」

「いや 私が言いたいのはそんなことではなくてだな」

「ちゃんと観戦料払ってるのかしら」

「馬鹿ね 払ってたらそんなところから覗かないわよ」

「そうよね」

「ちゃんと払わなきゃ駄目だよ」

「当時の日本とロシヤがだな」

「そういえば朝鮮人はいないわね」

「支那人を肩車でもしてるんじゃないの?」

「そうか だったら見えないわよね」

「見えないの? かわいそう……」

「そもそもこれは」

「ねえねえねえ もしかして

その肩車している朝鮮人ってケンノスケなんじゃあ」

「それあるかも」

「お金払って見るように言ってあげなきゃ」

「だからおいらは日本人だって」

「人の話を聞け!」

「わかってるって 今は日本人なんでしょ?」

「もともとだし」

「で この絵のどこら辺が重要なんですか?」

「……」

「カブキマンさん?」

「いや なんでもない…… 続けるぞ」

「よろしくお願いします」

「一方我が陸軍は 3月に黒木為驕iためもと)大将率いる第一軍が仁川に上陸し

4月21日 4万の大軍が鴨緑江左岸に展開を完了する

かくて5月1日 鴨緑江渡河作戦が決行される

この戦いは戦時外債を売って資金を調達する為にも勝つ必要があった

明け方より攻撃が始まり わずか1日のうちに1万6000のロシヤ軍を破り渡河に成功する

この勝利は 近代戦において有色人種が白色人種を破った最初の戦いであり

『クロキはクロスキーというポーランド系である』という流言が広まり

ロシヤは『クロキは混血でロシヤ人の血が流れている』と宣伝したという」

「ハナちゃん知ってるよ こういうのを在日認定って云うんだよね」

「どこでも同じようなことやってるんだな」

「ご本家の言葉を借りるなら 人間は昔も今も馬鹿バッカということで」

「同列に見るのはいくらなんでも酷だろう ま それはさておき

参謀本部はそのまま停止せよと要望したが 黒木大将は

『戦争は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!』

と言ったかどうかは知らないが 勝ちに乗じて進撃を続け

5日に湯山城 10日に鳳凰城 11日に寛甸を陥落せしめた

一方 奥保鞏(やすかた)大将率いる第二軍は 5月に遼東半島東岸に上陸

26日 ロシヤ軍が堅固な陣を築いて待ち構える南山の攻撃を開始 南山の戦いがはじまった

我が軍は猛攻に次ぐ猛攻で勝利を掴んだが 3万6000の兵員のうち4000以上の戦死者を出してしまう

乃木希典将軍は長男をこの戦いで亡くし 後に以下のような漢詩を詠んでいる」


 

山川草木転荒涼 山川草木 うたた荒涼
十里風腥新戦場 十里風なまぐさき 新戦場
征馬不前人不語 征馬すすまず 人語らず
金州城外立斜陽 金州城外 斜陽立つ


 

「で 歌は?」

「例によって無い」


「むう〜」

「乃木将軍を指揮官に第三軍が編成され 遼東半島の要衝旅順の攻略に向かい

第一軍・第二軍・そして野津道貫大将指揮下の第四軍は遼陽へ向けて進撃を続けた」


 

「日本陸軍」
大和田健樹・作詞 深沢登代吉・作曲



(出陣)
天に代りて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は
歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ

(斥候)
或いは草に伏し隠れ 或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵
肩に掛(かか)れる一軍の 安危はいかに重からん

(工兵)
道なき方に道をつけ 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち
雨と散りくる弾丸を 身に浴びながら橋かけて
わが軍わたす工兵の 功労何か譬(たと)うべき

(砲兵)
鍬取る工兵助けつつ 銃取る歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる わが軍隊の砲弾は
放つにあたらぬ方もなく その声天地に轟けり

(歩兵)
一斉射撃の銃先に 敵の気力をひるませて
鉄条網もものかわと 躍り越えたる塁上に
立てし誉れの日章旗 みなわが歩兵の働きぞ

(騎兵)
撃たれて逃げゆく八方の 敵を追い伏せ追い散らし
全軍のこらずうち破る 騎兵の任の重ければ
わが乗る馬を子のごとく いたわる人もあるぞかし

(輜重兵)
砲工歩騎の兵強く 連戦連勝せしことは
百難おかして輸送する 兵糧輜重(しちょう)のたまものぞ
忘るな一日おくれなば 一日たゆたう兵力を

(衛生隊)
戦地に名誉の負傷して 収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊 ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の なさけよ思えば君の恩

(凱旋)
内には至仁の君いまし 外には忠武の兵ありて
わが手に握りし戦捷の 誉は正義の勝鬨ぞ
謝せよ国民 大呼して 我が陸軍勲功(いさおし)を

(平和)
戦雲東におさまりて 昇る朝日と諸共に
かがやく仁義の名も高く 知らるる亜細亜(アジヤ)の日の出国
光めでたく仰がるる 時こそ来ぬれ いざ励め

(明治37年7月)


 

「話を海軍に移そう

3度にわたる閉塞作戦が失敗し 5月15日には初瀬と八島が蝕雷し沈没してしまう

8月10日 今まで港内に潜んでいた旅順艦隊がウラジオストックへ向けて出撃

こうして黄海海戦が開始されたのだ

我が連合艦隊は旅順艦隊が艦隊決戦を挑んできたものと思ったため迎え撃ったが

旅順艦隊は応戦しながら逃走 連合艦隊はこれを追撃した

午後6時37分 我が旗艦三笠から撃ち出された主砲が 敵旗艦ツェザレウィッチの司令塔付近で炸裂

これによりウィトゲフト長官らが戦死 また操舵手も失った同艦は左へ回頭

陣形の乱れた旅順艦隊に連合艦隊は猛攻を加え 結果戦艦5隻を含む9隻が旅順港に逃げ戻った

この黄海海戦により旅順艦隊はほぼ壊滅した

一方我が海軍は再び旅順封鎖の任に就いたのだ」

「これで半分くらい?」

「そんなところかしら」

「ふむ」

「旅順艦隊に大打撃を与えることには成功したが

今尚日本海で活動を続けるロシヤ艦隊があった

ロシヤ・グロムボイ・リューリックの三巡洋艦を基幹とするウラジオ艦隊だ

神出鬼没のこの艦隊により 常陸丸・佐渡丸・和泉丸といった輸送船が撃沈され 多くの犠牲を出していたのだ」


 

「常陸丸」
作詞作曲者・不詳

波おだやかに 風絶えて
立つ霧くらき 玄海の
浪路はるかに さしかかる
わが運送の 常陸丸

乗り組む 七百有余名
皆これ 干城貔貅(かんじょうひきゅう)の士
敵と雌雄を 決せんと
勇気誰かは 劣るべき

俄(にわ)かに轟く 砲声は
ただごとならず 聞くうちに
敵艦たちまち 現われて
打ち出す弾丸は 雨霰

降れと敵は 勧むれど
われには樹つべき 白旗なし
死すとも引かず 退かぬ
日本男子を 知らざるか

弾丸われに 命中し
機関は砕け 火は起こり
流るる血汐と もろともに
屍は算を 乱したり

腰には剣 帯ぶれども
手に銃は 握れども
船その船に あらざれば
戦われぬぞ 口惜しき

「今は是まで 死すべし」と
決して騒がぬ  須知中佐
捨つる命は 軽けれど
連隊長の 任重し

「残して敵に 渡さじ」と
手ずから火に焼く 聯隊旗
炎は煙と 消ゆれども
赤誠いかで 消え失せん

数万の敵を 取りひしぐ
勇気を施す ところなく
運命船と ともにして
殉ぜし 七百余名の士

沈みし屍も 還らねど
壮烈鬼神を 哭(な)かしめし
最後は 日本軍人の
鑑(かがみ)とあらん 千代かけて


 

「この艦隊にあたったのが

以前話した六六艦隊の6巡洋艦 出雲・磐手・吾妻・浅間・八雲・常盤 を基幹とする第二艦隊

率いるは上村彦之丞中将

しかし一向に捕捉する事は出来なかったのだ

露探艦隊(スパイ艦隊)とまで言われる始末で

国民は将軍を非難し 中には邸宅に投石するものまであったという」

「……」

「あらどうしたのケンノスケ」

「え いや……」

「もしかして投石した事があるとか?」

「違うよ! そもそもこの時既にヨーロッパに渡ってたし」

「あやしい」

「なぜ……」

「ケンノスケがそんなことやるわけないじゃない」

「ナージャ……」

「ケンノスケは朝鮮人だなんだから日本に居るわけないんだし

そもそもそんなことやる度胸もないって」

「ふむふむ」

「……」

「ところでカブキマンさん」

「何だ?」

「海軍の司令官は提督っていうんじゃないの?」

「普通はそうなのだが 上村提督は将軍と呼ばれていたようだ」

「ふむ」

「8月14日 第二艦隊はついに宿敵ウラジオ艦隊を捕捉

かくして蔚山沖海戦となった 海戦の末我が海軍は勝利を収め こうしてウラジオ艦隊は壊滅したのだ

ロシヤとグロムボイは遁走 リューリックは撃破され今将に千尋の海の底へと沈まんとしていた

上村将軍は命令を下した

『投げ出されたロシヤ水兵を救助せよ!』

この英断により海中に逃れた625名のほとんどが我が海軍によって救助された

昨日まで非難の的であった将軍は 一躍英雄となり称えられるところとなったのだ」


 

「上村将軍」
佐々木信香・作詞 佐藤茂助・作曲



荒波吠ゆる風の夜も 大潮 咽(むせ)ぶ雨の夜も
対馬の沖を守りつつ 心を砕く人や誰(た)れ
天運 時をかさずして 君幾度(いくたび)かそしられし
ああ浮薄なる人の声 君 眠(ねむ)れりと言わば言え
夕日の影の沈む時 星の光の冴ゆる時
君 海原をうち眺め 偲ぶ無限の感如何に

時しも八月十四日 東雲(しののめ)白む波の上(え)に
煤煙(ばいえん)低く棚引きて はるかに敵の影見えぬ
勇みに勇めるますらおが 脾肉(ちにく)は躍り骨はなる
見よやマストの旗の色 湧きたつ血にもにたるかな
砲煙天にとどろきて 硝煙空にうずまきて
茜(あかね)さす日もうちけむり 荒るる潮(うしお)の音高し

蔚山沖(うるさんおき)の雲はれて 勝ちほこりたる追撃に
艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック
うらみは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり
英雄の腸(はらわた)ちぎれけん 「救助」と君は叫びける
折しも起る軍楽の ひびきと共に永久(とこしえ)に
高きは君の功(いさお)なり 匂うは君の誉なり

(明治37年7月)

 


救助されたロシヤ水兵

 


「因みに将軍は『俺が生きている間はこの歌を歌ってくれるな』と言っていたようだ」

「わかるかも」

「因みに作詞者は七高造士館の生徒で 作曲者は鹿児島の師範学校の書記

両人とも上村提督と同じ薩摩の生まれよ」

「さて 再び陸軍に話を移そう

黒木大将率いる第一軍は 遼陽の南東 弓張嶺を根城とするロシヤ軍に対し夜襲を敢行 突破に成功する

そして8月26日より ついに日露両軍の大部隊が激突する遼陽会戦が始まった

30日 第一軍6万が闇に乗じて太子河を渡河し 遼陽東方より猛進撃を開始

第二軍は遼陽南西の首山堡に攻勢をかける ロシヤ軍の抵抗は熾烈を極めた

この戦いで有名となったのが 静岡歩兵第三十四連隊第一大隊長 橘周太少佐だ」

ダディャーナザァーン!!

「言うと思った」

「やっぱり?」

「物心がつく前から喜びも苦しみも共にしてきた仲ですから」

「最後のほうは両者の喜びと悲しみが逆転してたけどね」

「はてなんのことやら」

「おい」

「全く記憶にございません」

「まあ もういいけど……」

「それでこそ私の忠実なナイト」

「……」

「8月31日午前四時 歩兵第三十四連隊は首山堡への突撃を開始

先陣は橘少佐率いる第一大隊

銃砲火の中 決死の突撃を敢行したが

ロシヤ軍の応戦により死傷者が続出

ダディャーナザァーンは陣頭に立ち 名刀兼光を振りかざし叫んだ」

ウェーーーーーーーーーーーーーーーーイ!!

「……」

「……」

「……」

「……」

「なんだいきなり」

「いや なんかそっちが振ってきたから……」

「振った? 私は別にお前と恋仲になった事などないが」

「そういう意味じゃなくてネタを……」

「さっぱりわからん 誰かわかるか?」

「……」

「……」

「先生 これは授業妨害です」

「まったくだ」

「ヴー オンドゥルルラギッタンディスカー」

「酷いようなら退場処分にしましょう」

「そうだな」

「ウゾダ ウゾダドンドコドーン」

「橘少佐は陣頭に立ち 名刀兼光を振りかざし叫んだ

『俺に続け!』

第一大隊の決死の肉弾行により

第一塁を制圧 更に第二塁も抜いて

午前5時50分 ついに首山堡上に日章旗が翻ったのだ

しかしロシヤ軍は直ちに反撃に転じ 少佐は敵の一弾を受けた

内田軍曹は少佐を負って退却したが その途中でついに少佐は戦死を遂げる

後 特進して勲四等功四級に叙せられ軍神となった

中佐は皇太子(後の大正天皇)の御付武官 名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し

品行方正 徳望が高く 部下の信頼はあつかった

中佐の出身地 長崎県千々石町の町役場前には 今も中佐の銅像があり 台座にはこう書かれている

「至誠の人 橘周太」


「橘中佐(上)」
鍵谷徳三郎・作詞 安田俊高・作曲



遼陽城頭夜は闌(た)けて 有明月(ありあけづき)の影すごく
霧立ちこむる高梁(こうりょう)の 中なる塹壕声絶えて
目醒(めざ)めがちなる敵兵の 胆驚かす秋の風

我が精鋭の三軍を 邀撃(ようげき)せんと健気にも
思い定めて敵将が 集めし兵は二十万
防禦(ぼうぎょ)至らぬ隅(くま)もなく 決戦すとぞ聞えたる

時は八月末つ方 わが籌略(ちゅうりゃく)は定まりて
総攻撃の命下り 三軍の意気天を衝く
敗残の将いかでかは 正義に敵する勇あらん

「敵の陣地の中堅ぞ まず首山堡(しゅざんぽ)を乗っ取れ」と
三十日の夜深く 前進命令 忽(たちま)ちに
下る三十四連隊 橘大隊一線に

漲る水を千仭(せんじん)の 谷に決する勢か
巌(いわお)を砕く狂瀾(きょうらん)の 躍るに似たる大隊は
彩雲たなびく明(あけ)の空 敵塁近く攻め寄せぬ

斯(か)くと覚(さと)りし敵塁の 射注ぐ弾の烈しくて
先鋒数多(あまた)斃(たお)るれば 隊長怒髮天を衝き
「予備隊続け」と太刀を振り 獅子奮迅と馳せ登る

剣戟 摩して鉄火散り 敵の一線まず敗る
隊長咆吼躍進し 卒先塹壕飛び越えて
閃電 敵に切り込めば 続く決死の数百名

敵頑強に防ぎしも 遂に堡塁(とりで)を奪いとり
万歳声裡(せいり)日の御旗 朝日に高くひるがえし
刃を拭う暇もなく 彼れ逆襲の鬨の声

十字の砲火雨のごと よるべき地物(ちぶつ)更になき
この山上に篠(しの)つけば 一瞬変転ああ悲惨
伏屍(ふくし)累々山を被(おお)い 鮮血漾々(ようよう)壕に満つ

折しも咽(のど)を打ちぬかれ 倒れし少尉川村を
隊長躬(みずか)ら提(ひっさ)げて 壕の小蔭に包帯し
再び向う修羅の道 ああ神なるか鬼なるか

名刀関の兼光が 鍔(つば)を砕きて弾丸は
腕(かいな)をけずり さらにまた つづいて打ちこむ四つの弾
血煙さっと上(のぼ)れども 隊長さらに驚かず

厳然として立ちどまり なお我が兵を励まして
「雌雄を決する時なるぞ この地を敵に奪わるな
とくうち払へこの敵」と 天にも響く下知の声

衆をたのめる敵兵も 雄たけび狂う我が兵に
つきいりかねて色動き 浮足立てし一刹那(せつな)
爆然敵の砲弾は 裂けぬ頭上に雷(らい)のごと

辺りの兵にあびせつつ 弾はあられとたばしれば
打ち倒されし隊長は 「無礼ぞ奴(うぬ)」と力こめ
立たんとすれど口惜しや 腰は破片に砕かれぬ

「隊長傷は浅からず 暫(しば)しここに」と軍曹の
壕に運びていたわるを 「否(いな)みよ内田浅きぞ」と
戎衣(じゅうい)をぬげば紅の 血潮淋漓(りんり)迸(ほとばし)る

中佐はさらに驚かで
「隊長われはここにあり 受けたる傷は深からず
日本男子の名を思い 命の限り防げよ」と
部下を励ます声高し

寄せては返しまた寄する 敵の新手を幾度(いくたび)か
打ち返ししもいかにせん 味方の残兵少きに
中佐はさらに命ずらく 「軍曹銃をとって立て」

軍曹やがて立ちもどり
「辛(から)くも敵は払えども 防ぎ守らん兵なくて
この地を占めん事難(かた)し 後援きたるそれまで」と
中佐を負いて下りけり

屍ふみ分け壕をとび 刀を杖に岩をこえ
ようやく下る折も折 虚空(こくう)を摩して一弾は
またも中佐の背をぬきて 内田の胸を破りけり

「橘中佐(下)」
鍵谷徳三郎・作詞 安田俊高・作曲



嗚呼々々悲惨 惨の極 父子相抱く如くにて
ともに倒れし将と士が 山川震(ふる)う勝鬨に
息吹き返し見返れば 山上すでに敵の有

飛び来る弾の繁(しげ)ければ 軍曹ふたたび起き上り
無念の涙払いつつ 中佐を扶(たす)けて山の影
たどり出でたる松林 僅(わず)かに残る我が味方

阿修羅の如き軍神の 風発叱咤今絶えて
血に染む眼(まなこ)打ち開き 
日出ずる国の雲千里 千代田の宮を伏し拜み
中佐畏(かしこ)み奏(そう)すらく

「周太が嘗て奉仕せし 儲(もうけ)の君の畏くも
生れ給いし よき此の日 逆襲うけて遺憾にも
将卒数多(あまた)失いし 罪はいかでか逃るべき

さはさりながら武士(もののふ)の とり佩(は)く太刀は思うまま
敵の血汐に染めてけり 臣が武運はめでたくて
只今ここに戦死す」と 言々悲痛 声凛凛

中佐はさらにかえりみて
「我が戦況はいまいかに 聯隊長は無事なるか」
「首山堡 既に手に入りて 関谷大佐は討死」と
聞くも語るも血の涙

わが凱歌(かちどき)の声かすか 四辺(あたり)に銃(つつ)の音絶えて
夕陽(せきよう)遠く山に落ち 天籟闃寂(てんらいげきじゃく)静まれば
闇の帳(とばり)につつまれて あたりは暗し小松原

朝な夕なを畏くも 打ち誦じたる大君の
勅諭(みこと)のままに身を捧げ 高き尊き聖恩に
答え奉れる隊長の 終焉(いまわ)の床(とこ)に露寒し

負いし痛手の深ければ 情(なさけ)手厚き軍曹の
心尽しも甲斐なくて 英魂ここにとまらねど
中佐は過去を顧みて 終焉の笑(えみ)をもらしけん

君身を持して厳なれば 挙動に規矩(きく)を失わず
職を奉じて忠なれば 功績常に衆を抜き
君交わりて信なれば 人は鑑(かがみ)と敬いぬ

忠肝義胆(ちゅうかんぎたん) 才秀で
勤勉刻苦 学すぐれ 情は深く勇を兼ね
花も実もある武士の 君が終焉の言葉には
千載誰か泣かざらん

花潔く散り果てて 護国の鬼と盟(ちか)いてし
君軍神とまつられぬ 忠魂義魂後の世の
人の心を励まして 武運は永久(とわ)に尽きざらん

国史伝うる幾千年 ここに征露の師を起こす
史(ふみ)繙(ひもと)きて見る毎(ごと)に わが日の本の国民よ
花橘の薫にも 偲べ軍神中佐をば


 

「だから長いって……」

「そんなこと言われても 途中飛ばしたら意味が通じなくなるし

特にこういったストーリー性のあるものは」

「今までも中略してるのあったけど」

「重要度が高い曲はノンカットなので」

「途中飛ばしてるのは重要じゃないのね」

「そんなことありません

重要なところを抽出したまで

本当にどうでもよかったので飛ばしたのは 二時間目の『鴨緑江』くらい」

「何でまた」

「作詞者が山県有朋だから」

「……」

「……」

「?」

「まあ こんな下手な小説よりちゃんとした日本語なので読んでみてください

細かい意味なんて気にしなくていいんです 学校の授業ではないですから」

「ん〜 でもこれも授業なんだし正しい意味もやらないと」

「学校の国語の授業で小説や古典を好きになる人は少ないと思います

細かい意味だの解釈だのやるだけで 文学を味わうわけではないですから」

「意味が知りたければ辞書を引くことだ」

「むう〜……」

「因みにこの『橘中佐』は軍歌の中でも最長の部類に入る

さて 続けよう

その後も攻防が続き 翌月3日 ロシヤ満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキンは全軍に撤退を下令

4日 我が軍は遼陽に入城した」

「さっきから出てくる地名が全然わかんないんだけど」

「地図帳を……」

「丸投げかよ」

「まあ こんな感じだ」

 

 

「こりゃまた適当な」

「細かい事は気にするな 大体分かればいい」

「テレビに出てくるアメリカの場所もわからない若者とかには意味不明なんじゃないか?」

「ああいうのは極一部だ                                             というかそういうことにしておかないとやってられない

「まあ そうだな」

「さて 前にも触れたが 第一,二,四軍が奉天を目指す一方で

乃木大将率いる第三軍は遼東半島の要衝 旅順に肉薄した

8月7日 旅順東北の二龍山・東鶏冠山を攻撃の主目的とし

第一回旅順総攻撃が開始せられた

第一師団及び後備歩兵第一旅団は右翼より 第九師団は中央より 第11師団は左翼より攻撃

一部陣地を奪取するも ロシヤ軍の頑強な抵抗を受け 同月24日 攻撃中止が下令される

参加兵員5万中 死傷者は1万6000に達した

 

「肉弾」
櫻井忠温・著

[大孤山の攻略]
 此の大突撃命令が伝えらるるや否や、両翼並び起ち左右相応じ、我は鬼神の勇威を揮(ふる)いて、彼が魔王の怒嚇を意とせず。
天険を犯し放火を冒して、攻めかけ攻めかけ、乗り越え乗り越え、
喚声轟々、砲声殷々、剣尖閃き、砂塵舞い、鮮血流れ、肝脳塗れ、今や格闘大混戦!
敵は山上の大石を揺がして転々墜下せしめ、為に千仭の渓谷へ跳ね飛ばさるるものあれば、幾丈の岩石に圧壊(おしつぶ)さるるものあり。
肉破れ骨砕け、喚き叫ぶ声、狂い猛る音、惨たる其光景や、実に此世の態(さま)とも覚えられなかった。
(中略)
然るに軈(やが)て万歳の声は、峯にも尾にも相応じて、山も揺がんばかりに起こった。
何事ぞ、何事の起りしぞ?
見よ、濛々たる硝煙の間に翩翻たるは、我が日章旗に非ずや!
軍旗は既に進んで、山頂の岩角に翻えれり。
予等は之を見て喜び極まって泣きたり、実に泣きたり。

[肉弾又肉弾]
 勇士の死屍は山上更に山を築き、戦士の碧血は凹処に川を流す。
戦場は墳墓となり、山谷は焦土と化す。刻々針の進むと共に、幾多の生命は奪い去らる。
(中略)
幾許(いくばく)の鉄弾を抛(なげう)ち、幾許の肉弾を費やしても、彼の堅牢無比と誇った敵塁に対して効果を奏せざるに終わったのである。
否、其後数回の大突撃も、肉弾又た肉弾を投じて、勇士の血を涸らし骨を砕きしに止まったのである。
されど此の多大の犠牲は畢竟徒事(あだごと)ではなかった。
我れは素より幾許大の価を払わんとも、一日も早く此の要塞を抜かずんばあるべからざりしより、
将軍は涙(なんだ)を潜めて犠牲を擲(なげう)ち、部下は死を甘んじて、殊死決戦、奮って肉弾となって敵塁を撃った。
而して第一回総攻撃は事失敗に了(おわ)ったと云わねばならぬが、
これが為に費やした肉弾は、先ず堅塁を破壊すべき第一次の有力なる楔子(くさび)となって、遂に陥落の期を呼び起こしたのである。
(中略)
嗚呼此の地隙!
僅かに幅二間足らずの一条の隘路(あいろ)、此処ぞ昨は第九師団及び後備第七第八両聯隊の苦戦奮闘したる処、其跡や何の状ぞ!
担架の一つも、薬籠の一つも運び来らるべき地位ならねば、死傷者累々として此地隙に堆積し、
彼方にも傷に唸(うめ)く者、此方にも担架を呼ぶ者、唯だ静かなるは已に絶命せる戦死者の骸なり。
死屍地を塞(うず)めて予等の足を入るべき空隙なし。これぞ地獄の隧道(トンネル)!
予等右に避くれば、傷つける同胞を踏み、左に地を求むれば、地には非ずして、闇中に色を弁識する能わざるカーキ色の戦友の屍なり。


 

「櫻井中尉は 松山歩兵第22聯隊の旗手として従軍

これは其の実体験を基にした小説です

作者の文章力が貧弱に過ぎるので引用してみました

因みに『さくらいただよし』です 何か同郷の地方大学の左翼教授が自分のサイトで『さくらいただあつ』とか書いてますが」

「もしや後半が重要?」

「作者の中の人も色々あるんです」

「中の人も大変なんだな」

「JASRACに許可を取らず歌詞掲載してたりしますが

うらやまし……じゃなかった いいんでしょうか これ」

「教授の中の人も大変なのね」

「みんなハナちゃんをからかってるの? 中の人なんていないんだよ」

「『ああ紅の血は燃ゆる』は動員の歌であって雨の神宮競技場とは関係ないのですが」

「はぁ」

「というか本人も動員の歌と書いてるし やはり原典が」

「何の話だよ」

「その話をするにはまだ40年ほど早い

さて 9月19日に第二回旅順総攻撃がはじまった

旅順北西の要地二〇三高地も攻撃目標とされたが 主目標は前回と同じく北東よりの正面突破であった

我が軍の死傷者は23日までに5000を数え 作戦は中止される

翌月26日より再攻撃を開始するも 4000の損害を蒙りまたもや失敗に終わった

我が軍は11月26日より第三回旅順総攻撃を開始

午後8時50分より3016名からなる白襷隊が夜襲を敢行するも 夜明けまでにほぼ全滅

攻撃は続行せられる

二〇三高地を主目標とし 剣電弾雨もものかわと 突貫につぐ突貫 30日午後10時 遂に二〇三高地上に日章旗が翻った

しかしロシヤ軍の増援部隊により 31日には再び露兵の手に落ちてしまうのである」

 

「戦友」
真下飛泉・作詞 三善和気・作曲

ここはお国を 何百里
離れて遠き 満洲の
赤い夕日に 照らされて
友は 野末(のずえ)の石の下

思えば悲し 昨日まで
真先駈けて 突進し
敵を 散々懲らしたる
勇士は ここに眠れるか

ああ 戦の最中に
隣りに居った この友の
俄(にわ)かに はたと倒れしを
我は おもわず駆け寄って

軍律きびしい 中なれど
これが見捨てて 置かりょうか
「しっかりせよ」と 抱き起し
仮繃帯も 弾丸(たま)の中

折から起る 突貫に
友は ようよう顔あげて
「お国の為だ かまわずに
後(おく)れてくれな」と 目に涙

あとに心は 残れども
残しちゃならぬ この体
「それじゃ行くよ」と 別れたが
永の別れと なったのか

戦すんで 日が暮れて
さがしにもどる 心では
どうぞ 生きて居てくれよ
ものなと言えと 願うたに

空しく冷えて 魂は
故郷(くに)へ 帰ったポケットに
時計ばかりが コチコチと
動いて居るも 情なや

思えば去年 船出して
お国が見えず なった時
玄海灘に 手を握り
名を名乗ったが 始めにて

それより後は 一本の
煙草も二人 わけてのみ
ついた手紙も 見せ合うて
身の上話 くりかえし

肩を抱いては 口ぐせに
どうせ命は ないものよ
死んだら骨(こつ)を 頼むぞと
言いかわしたる 二人仲

思いもよらず 我一人
不思議に命 ながらえて
赤い夕日の 満洲に
友の塚穴 掘ろうとは

くまなく晴れた 月今宵
心しみじみ 筆とって
友の最期を こまごまと
親御へ送る この手紙

筆の運びは つたないが
行燈(あんど)のかげで 親たちの
読まるる心 おもいやり
思わずおとす一雫

(明治38年9月)


 

「この軍歌は戦後の作だが 軍歌としては最も有名なものである」

「昭和の戦争期に突入すると

4番の『軍律きびしい中なれど』が『硝煙渦巻く中なれど』となり

終には厭戦気分が蔓延するということで歌唱禁止になりました

言論弾圧がどうとか何かと言われますが まだこの頃は余裕があったのです」

「『学校及家庭用言文一致叙事唱歌』の第三編として発行されたものであるが

第一編は以下の歌である」

 

「出征」
真下飛泉・作詞 三善和気・作曲

父上母上 いざさらば
わたしは いくさに行きまする
隣りに居った 馬さえも
徴発されて 行ったのに
わたしは 人と生れきて
しかも 男子とあるものが
お国の為めの 御奉公は
いつであろうと 待つうちに
昨日とどいた 赤だすき
かけて勇んで 行きまする
行くは 旅順か奉天か
いずこの空か 知らないが
お天子様の 為じゃもの
うち死するは あたりまえ
父上母上 いざさらば
これが 此世のいとまごい
お二人様も 妹も
どうぞ御無事と 声くもり
顔見合せて 一雫
さすがに涙が 袖ぬらす
思えば 永の御養育
いつの世にかは 忘れましょ
大きゅうなった 此からだ
よし孝行は せなんだが
お天子様へ 御奉公
忠義をしたと 一言葉
死んだあとでも 私(わたくし)を
ほめて下され 頼みます
若しも 運よう生き残り
お国へ帰る 事あらば
死んだに勝る てがらをば
きつと 御覧に入れまする
いきると死ぬは 時の運
決して ないて下さるな
父上あなたは 御老体
山や畑の おしごとも
どうぞ御無理を なさらずに
朝晩おやすみ 願います
母上あなたは 病気がち
がまんなさらず 御養生
オオ妹よ お二人を
大事に孝行 頼むぞや
父上母上 いざさらば
妹よさらばと 立あがる
かどには 村の人達が
旗やのぼりを さしたてて
村一番の 武雄どの
達者で戦争 なされよと
手をふりあげて 声そろえ
万歳万歳 万々歳

(明治38年)


 

「『道は六百八十里』という永井建子の曲があるのだが

難解な節であったためか建子の曲では歌われなくなり この『出征』の旋律で歌うようになった

永井建子のつけた最初の8小節が訛ったものであるという説と

『出征』の譜面を『道は六百八十里』に転用したものであるとの二説がある」

 

「道は六百八十里」
石黒行平・作詞 永井建子・作曲



道は六百八十里
長門の浦を船出して
早や二年(ふたとせ)を故郷の
山を遥かに眺むれば
曇りがちなる旅の空
晴らさにゃならぬ日の本の
御国の為と思いなば
露より脆(もろ)き人の身は
ここが命のすてどころ
身には弾きず剣きず

負えどもつけぬ赤十字
猛き味方の勢いに
敵の運命きわまりて
脱ぎし兜を鉾の尖
串(さ)してぞ帰る勝利軍(かちいくさ)
空の曇りも今日晴れて
ひときわ高き富士の山
峰の白雪消ゆるとも
勲(てがら)を建てしますらおの
名誉(ほまれ)は長く尽きざらん

(明治24年5月)


 

「また この『出征』の旋律を用いて以下のようなお手玉歌も作られ全国的に広まった」

 

「一列談判」
作詞者不詳 三善和気・作曲 「出征」の譜

一列談判(らんぱん)破裂して
日露戦争はじまった
さっさと逃げるはロシヤの兵
死んでも尽くすは日本の兵
五万の兵をひきつれて
六人残して皆殺し
七月八日の戦いに
ハルピンまでも攻め入って
クロパトキンの首を取り
東郷元帥万々歳


 

「解説する事に意味は無いので 話を進めよう

11月31日 指揮権が児玉源太郎総参謀長に委譲せられた

二〇三高地を巡る攻防は更に熾烈を極める

26日に始まる戦闘は 戦死5000 戦傷1万8000に及ぶ甚大な損害を出したが

それと引き換えに 翌月5日 遂に我が軍は二〇三高地を陥落せしめる

かくて旅順攻略戦の雌雄は決した

18日に東鶏冠山 28日に二龍山 31日に松樹山と 旅順三大堡塁はことごとく我が手中に帰し

翌1月1日 彼が難攻不落を誇った永久要塞旅順は遂に陥落する

激戦苦闘6ヶ月 1万5400の戦死者と4万4000の戦傷者の上に掴み取った勝利であった」

 

「旅順」
水島洋・作詞 細川潤一・作曲
唄・近衛八郎

遺恨十年 命を捧げ
こめた血潮で 旅順の土が
赤い夕日に 夢さえそぞろ
ここは草むす 骨の跡

万死恐れず 怒涛を突いて
水漬くかばねに 旅順の海が
生きているよに 波立ち騒ぐ
ここは血潮で 染めた海

王師幾万 海また山に
果てたかばねが 流れてとけて
燃ゆる日の丸 いさおも高く
立てた山河よ いまいずこ

親子もろとも 積んだるかばね
なんで忘らりょ 旅順の港
たとえ山河は 朽ち果てたとて
ここは血の海 骨の山

(昭和12年8月 キングレコード)

 

「肉弾」
櫻井忠温・著

[死中再生]
 明治三十八年の初春を迎えた第二日、蘇土(スエズ)以東第一の堅城と唱えられたる旅順大要塞
――露国が東亜侵略の策源地と頼んだ此地は、遂に長く皇軍の猛威を支うること能わずして開城し、
守将自ら出でて乃木将軍の旗下に命を乞うに至った。
此報を得た予――否、予のみならず、苟(いやし)くも攻囲軍に参加した凡(すべ)ての負傷者は、喜ぶと云わんよりは、寧ろ泣いたのである。
旅順が山谷を埋めた我軍勇士の白骨も、此時起って舞躍せしならんか。
「仇を……」と叫び、「旅順が……」と呼びつつ、
無限の怨を含んで斃(たお)れたる忠義の霊魂も、必ずや茲(ここ)に初めてその安慰を得たるならんか。
(中略)
嗚呼、今は戦は休(や)みぬ、嵐は静まりぬ。
勇士の血は此平和を購(あがな)いたり。
夫(そ)れ旅順の山、竟(つい)に夷(たいら)かなるの秋(とき)あらん、遼東の河、竟に涸るるの時あらん。
されど君に竭(つく)し、国に殉じたる幾万の忠将義卒の名は、千歳に芳(かんば)しく、万世に輝き、
後昆(こうこん)は永遠(とこしなえ)に其勲績を伝えて遂に忘るるの時や無からん。


 

「『遂に忘るるの時やなからん』って言ってるけど 多分今の人あまり知らないわよ」

「その後昆(子孫)は侵略戦争がどうのこうのとか伝えてますね

そっちの方面では『遂に忘るるの時やなからん』こととなるでしょう」

「駄目だろそれ……」

「旅順攻略戦は『君死にたまふことなかれ』の付属品として出てくるくらい

旅順は無意味な死への大行進であり 勲績を伝えようとするのは極右で平和の敵なのです」

「『坂の上の雲』でも乃木さん酷評されてたわね」

「敵要塞への突撃は第一次大戦でもやったし

児玉総参謀長に指揮権を委譲してから程なく落ちたと 後知恵で論うことにはあまり意味はないわ

まあ 名将だとは言わないけど」

「5日 乃木大将は敵将ステッセルと水師営の民家で相見え 降伏文書調印が行われる

両将は互いに健闘を称え 昼食を共にし文通を約して分かれた

この時のことを歌ったのが 『昨日の敵は今日の友♪』で知られる唱歌『水師営の会見』

かくて第三軍は第一・二・四軍と合流すべく北進を開始する 全軍一路奉天へ」

 

「旅順陥落祝捷歌」
作詞作曲者・不詳

祝えや祝え 敵将降りて要塞落ちぬ
一月一日 めでたきこの日

祝えや祝え 世界の怖れしロシヤの兵に
遂には勝ちたり 日本男児

祝えや祝え 難攻不落の旅順の城に
今日しも輝く 旭の御旗

祝えや祝え 鋭き突撃 激しき爆破
鉄堅奪いて 陸軍勝てり

祝えや祝え 重砲うち出し水雷放ち
堅艦沈めて 海軍勝てり

祝えや祝え 正義に背きて私欲を謀る
悪魔の棲処(すみか)も 今より空し

祝えや祝え 敵国虎狼の野心も失せて
期してぞ待たる 世界の平和

祝えや祝え 十年このかた わが国民の
忍びに忍びし 思いははれぬ

祝えや祝え 陸海二軍の忠義の魂も
今日この慶び 笑いてうけん

祝えや祝え 露京に響け 勝鬨あげて
天皇陛下の 万々歳を

 

「勇士の涙」
林田撫水・作詞 三善和気・作曲

昨日は友と 呼びかわし
今日は別れて 敵味方
君のおんため つくす身の
いずれおとらぬ 忠と忠

心を込めて はなちたる
弾丸は見事に 君をうち
君は名誉の 戦死を遂げた
我も名誉の てがらした

さはいえ 思いめぐらせば
わが身上も しのばれて
男ながらも かくばかり
流れてやまぬ 血の涙

敵とはいえど 敵ならぬ
同じ地球に 生れきて
同じ月見る 君と我
かたきと呼ぶも 今しばし

(明治39年3月)


水師営の会見

 


「2月17日 乃木将軍率いる第三軍が第一・二・四軍と合流し 我が軍は遂に奉天作戦を発動させる

20日 満洲軍総司令官 大山巌大将は司令官を集め訓示を行った」

「この戦において勝を制したるものは戦後の主人となるべく 実に日露戦争の関ヶ原というも不可なからん

故に吾人はこの会戦の結果をして全戦役の決勝となす如く努めざるべからず」

「かくて 我が軍25万 ロシヤ軍32万 あわせて57万の大兵力が満洲の地に大激突する

奉天会戦の火蓋は切って落とされたのである

22日 新設の鴨緑江軍は鳳凰城より敵左翼を衝くべく進撃を開始

24日には清河城を落とし進撃を続けた

これに対しロシヤ満洲軍総司令官クロパトキンは 日本軍主力撃滅を企図し 兵力を割いて鴨緑江軍に当てる

27日 牽制の成功を受け 第三軍は奉天西方に向けて大迂回を開始

第一・二・四軍も攻撃を開始したが戦線は膠着した

猛進を続ける第三軍に対し ロシヤは日本軍主力邀撃の為 大兵力を我が左翼に展開し抵抗する

3月7日 秋山好古少将率いる秋山支隊の奉天北方20キロ地点への進出を受け クロパトキンは退却を下令

此機に乗じて 第一・四及び鴨緑江軍は進撃を開始し奉天に迫る

10日 我が軍は奉天20キロの地点まで包囲線を縮めたが

既に追撃する余力は無く ロシヤ軍は鉄嶺へ向けて退却していった

同日の大山総司令官奉天入城をもって 奉天大会戦は我が軍の勝利に終わったのである

我が軍の損害 死傷7万 ロシヤ軍の損害 死傷9万であった」

 

「奉天附近の会戦」
尾上柴舟・作詞 岡野貞一・作曲



三十五万四十万 沙河を中なる我と彼
築き立てたる堡塁(ほうるい)は 蜿蜒(えんえん)たりや五十余里

百二十日とく過ぎて 戦機は今や熟したり
一挙長蛇を屠るべく 包囲の策は決したり

風が寄せてくる大吹雪 咫尺(しせき)もわかぬ春二月
まず動きしは最右翼 忽(たちま)ち奪う清河城

驚く敵は大軍の 此処に向うと思いけん
予備の部隊を増加して 固く守るや撫順城

わが計成ると最左翼 早くも沙河をうち渡り
行軍日々に十数里 奉天近う出でにけり

包囲の形 整いぬ 時こそ今と中央軍
左右両翼もろともに 渾河(こんが)わたりて迫り行く

敵は逆襲 大夜襲 わが一方を破らんと
焦りたてども進み行く わが大軍は潮のごと

死戦や苦戦 乱戦の 数を尽して争えど
わが突撃の烈(はげ)しさに 乱れ乱るる敵の陣

三道均(ひと)しく破られて 退路危き敵将は
三月七日退却の 令をもろくも発したり

あとを慕いてわが軍は 包囲の線をちぢめつつ
退路をさえも断ち切りて 四面一度に追い立つる

三月十日よく記せよ われ奉天に入りにけり
十有六日よく記せよ 敵鉄嶺を棄てにけり

損害凡(およ)そ五十万 敵の半(なかば)は尽したり
日東男子 眉揚げて 無比の勝利を世に誇れ

(明治38年)


日露役奉天入城の図

 


「奉天入城の3月10日は 翌年から陸軍記念日となり

終戦の年――東京大空襲のその日――までは祝日であった」

 

「陸軍記念日を祝う歌」
陸軍省報道部新聞班・作詞 山田耕筰・作曲

奉天戦の 勝鬨の
聞こゆる今日の 記念日は
わが陸軍の 誉ぞと
国民(くにたみ)あげて 祝うなり
日露の役に 誓いたる
挙国一致を 忍びつつ

東亜のひかり 満蒙に
躍進の鐘 なり響き
戦果は唸る 過ぎし日の
赤き血潮に 築きたる
天業の道 ゆるぎなく
平和の楽土 春深し

世界の柱 わが日本
同胞すべて 九千万
鉄の結びに 義は重く
幾たび経ぬる 聖戦の
かがやく跡を 身にしめて
巨(おお)き歩みや 日の御旗

 


「奉天占領をもって 我が軍は陸戦における主目的を達成

一方連合艦隊は 37年の10月15日にリバウ軍港を出立し極東に向かいつつあったロシヤ太平洋第二艦隊

――バルチック艦隊――を邀撃するため西水道(朝鮮海峡)に集結 猛訓練を開始したのである

さて 一応ここらで当時の演歌も紹介しておこう」

 

「寂滅節」
添田唖蝉坊・作詞  「愉快節」の譜



泣き面を蜂が刺すとは露国の状態(さま)よ
因果応報 寂滅々 軍(いくさ)は海陸負けつづけ 馬賊はドシドシ暴れ出す おまけに国では虚無党が 内乱ゴタゴタ大騒動
因果応報 寂滅々

長の年月 日の本を 小国なりと侮りて 青い目玉で嚇しつつ 傲慢無礼を極めたる
甲斐もなくなく 寂滅々 アレキ死夫(シーフ)が逃げ出だす 跡へ拙者がマカローと ノコノコ出てきたおん大将 コレモ冥土へマカローと
軍艦諸共 寂滅々

黒鳩キンで候と 威張った勇士も此頃は 苦労は絶えんと改名し
これも間もなく寂滅々 今では駄法螺を吹き尽し 青息吐息のスラブ族 マゴマゴキョロキョロしたとても 輝く正義の旗風に もはや野心も水の泡
因果応報 寂滅々

要害堅固の旅順さえ
笑止千万 寂滅々 正義に勝てる筈なしと お気がついたら一刻も 早く降参するがよい もしもグズグズしておれば
露国全体 寂滅々

 

「露西亜兵の軍歌」
添田唖蝉坊・作詞  「愉快節」の譜



露西亜兵のうたう軍歌をよく聞けば 実におへそが茶をわかす
進めや進め諸共に 死なぬ覚悟で進むべし 敵に出会うた其時は 負傷(けが)をせぬうち逃げ出だせ
わずかの月給貰うため 負傷でもしてはあほらしい 死んでは尚更引き合わず 進むは吾等の義務なれど 逃げるは吾等の権利なり
勝手次第に逃げ出だせ されど婦女を辱め 他人の宝を奪いとる 事は決して怠るな 軍紀もへちまもあるものか こんな機会(とき)にはあばれ徳
強い日本の兵隊に 見付けられたらどんどんと 後ろを向いて進むべし 敵の居らない所へと 方角違いに進み行け
たとえ吾等は弱くとも 敵に遭わねば負けはせぬ
呑気じゃないかいな


 

「なんっつーか趣味悪いな」

「終戦間際の「『いざ来いニミッツマッカーサー……』はよく出てくるが 比べるまでもない

先に出した『一列談判』もそうだが 一般民衆が作るとこんな感じになる」

「演歌は次第に労働歌・革命歌的側面を増していき レコード時代の幕開けと共に消滅します

『アカは世界の敵』なので ここらへんで演歌は終わりということで」

「閑話休題 東航しウラジオストックを目指すバルチック艦隊を邀撃せんが為

我が海軍は70余隻の艦艇を動員し哨戒活動を続けた

5月27日午前2時45分 哨戒の任に当たっていた信濃丸は 五島列島の沖合いで不審船を発見

追走2時間 不審船の間近まで迫った信濃丸は左舷方向の彼方に幾本もの煤煙を確認する

バルチック艦隊の真只中に紛れ込んだと悟った信濃丸は回避しつつ無電を打った

 

敵ノ艦隊二〇三地点ニ見ユ

 

時に午前4時45分。続いて第二報。

 

敵進路東北東 対馬東水道ニ向カフモノノ如シ

 


仮装巡洋艦 信濃丸

 


午前6時43分 この報を受けた東郷平八郎連合艦隊司令長官は前艦隊に出動を下令する」

 

敵艦見ゆとの警報にしぇっし

連合艦隊は直ちに出動 これを撃滅しぇんとす

本日 天気しぇい朗なれども浪高し

 

「待て」

「どうした」

「『しぇ』って何よ『しぇ』って」

「東郷長官自身が昭和6年にそう言っているので そのまま書き写しただけよ えーと これ

「『乃木希典』って聞こえるぞ」

「失敗失敗 てへっ♪

これは明治43年の乃木将軍の肉声でした こっちが本物」

「そういう問題じゃなくて」

「というと?」

東郷元帥閣下を愚弄するなぁぁぁ!

「愚弄なんてしてないわよ」

「明らかにネタにしてるでしょ」

「被害妄想ここに極まれり」

「いやいやいや」

「っていうか」

「ん」

「この講座自体がネタなんだから みんなネタの一部だよ」

「むぎゅ」

「それを言っちゃおしまいだ」

「っていうか『平和ボケキャラ』という触れ込みで入ってきた筈なのにその手の話題ないし」

「メイン2人以外はおまけだから」

「根本的に間違ってると思うわ それ」

「作者の中の人に言ってきてね」

「だから中の人なんて……」

「無駄話はそこまでだ 続けるぞ

『敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』

と大本営に打電し 我が海軍はバルチック艦隊を迎え撃つべく 堂々出動した」

 

「日本海海戦」
大和田健樹・作詞 瀬戸口藤吉・作曲



海路 一万五千余浬
万苦を忍び 東洋に
最後の勝敗 決せんと
寄せ来し敵こそ 健気なれ

時維(こ)れ 三十八年の
狭霧も深き 五月末(さつきすえ)
敵艦見ゆとの 警報に
勇み立ちたる 我が艦隊

早くも根拠地 後にして
旌旗(せいき)堂々 荒波を
蹴立てて進む 日本海
頃しも 午後の一時半

 


 

「午後1時39分 沖ノ島西方洋上 ついにバルチック艦隊を発見する 彼我の距離15000

1時55分 我が旗艦三笠の檣頭に Z旗が翩翻と翻った」

皇国の興廃 此一しぇんに在り!

各員一層奮励努力しぇよ!!

「東郷元帥閣下を……」

「またこれか」

「またこれです」

「じゃあハナちゃん先に言っておくね

何度も言うけど中の人なんて……」

「こほん

『皇国ノ興廃此一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ』

かくて 折から風烈しく波高き日本海海上にて 両海軍が本大戦に於ける事実上の雌雄を決する

日本海海戦は開始せられたのである」

 



霧の絶間を 見渡せば
敵艦合せて 約四十
二列の縦陣 作りつつ
対馬の沖に さしかかる

戦機今やと 待つ程に
旗艦に揚がれる 信号は
「皇国(みくに)の興廃 この一挙
各員奮励 努力せよ」

千載不朽の 命令に
全軍深く 感激し
一死奉公 この時と
士気旺盛に 天を衝く

 


三笠艦橋の図

 


「午後2時5分 距離8000 我が連合艦隊は敵前で左に大回頭を開始

午後2時8分 距離7000 敵旗艦スワロフの主砲が噴いたのを合図とし バルチック艦隊は砲撃を開始した

我が方は応戦せず回頭を続け 旗艦三笠は猛砲火にさらされる

距離6400 回頭を終えた三笠の右舷砲門が一斉に唸った 時に午後2時10分」

 



第一第二 戦隊は
敵の行手を 押さえつつ
その他の戦隊 後より
敵陣近く 追い迫る

敵の先頭 「スワロフ」の
第一弾を 始めとし
彼我の打ち出す 砲声に
天地も 崩るるばかりなり

水柱白く 立ち騰(のぼ)り
爆煙黒く 漲りて
戦い いよいよたけなわに
両軍死傷 数知れず


 

「スワロフ オスラービアは忽ち炎上

30分の砲撃戦の末 戦艦スワロフ オスラービア ボロジノ アレクサンドル3世を含めた7隻が撃破され沈没

我が連合艦隊の勝利は決定的となった

我が軍は逃げる敵を追跡 夜には戦艦2隻を含む4隻を撃沈し

翌28日午前10時30分 ニコライ1世以下戦艦4隻が降伏

午後5時には司令長官ロジェストウェンスキー中将の収容せらる駆逐艦ベドウイを捕獲した」

 



されど 鍛えに鍛えたる
吾が艦隊の 鋭鋒に
敵の数艦は 沈没し
陣形乱れて 四分五裂

いつしか日は暮れ 水雷の
激しき攻撃 絶間なく
またも数多(あまた)の 敵艦は
底の藻屑と 消え失せぬ

明るく晨(あした)の 晴天に
敵を索(もと)めて 行き行けば
鬱稜島の ほとりにて
白旗を掲げし 艦(ふね)四隻

副将ここに 降を乞い
主将は我に 捕らわれて
古今の歴史に 例なき
大戦功を 収めけり


 

「バルチック艦隊は20隻を撃沈 6隻を拿捕され 6隻は中立国に入港

目的地ウラジオストックに辿り着いたのはわずか3隻であった

一方我が方の損害は 水雷艇34,35,69号の3隻に過ぎず

かくして日本海大海戦は 連合艦隊の完勝をもってその幕を閉じたのである」

 



昔は元軍 十余万
筑紫の海に 沈めたる
祖先に勝る 忠勇を
示すも君の 大御陵威(おおみいつ)

国の光を 加えたる
我が海軍の 誉こそ
千代に八千代に 曇りなき
朝日と共に 輝かめ

(大正3年)

歌詞一括表示

 

「日本海海戦」
文部省唱歌 芦田恵之介・作詞 田村虎蔵・作曲


1,2番


3番

「敵艦見えたり 近づきたり
皇国(みくに)の興廃 ただこの一挙
各員 奮励努力せよ」と
旗艦の帆柱 信号揚る
み空は晴るれど 風立ちて
対馬の沖に 浪高し

主力艦隊 前を抑え
巡洋艦隊 後ろに迫り
ふくろの鼠と 囲み撃てば
見る見る敵艦 乱れ散るを
水雷艇隊 駆逐隊
逃しはせじと 追いて撃つ

東天赤らみ 夜霧霽(は)れて
旭日かがやく 日本海上
今はや遁(のが)るる すべもなくて
撃たれて沈むも 降るもあり
敵国艦隊 全滅す
帝国万歳 万々歳

(大正3年6月)


 


「10月14日

大韓帝国における日本の優位性の確立 ロシヤ軍の満洲撤退 遼東半島の租借権の譲渡 南樺太の割譲等を定めたポーツマス条約が批准され

日露大戦争は日本の勝利の裡にその局を結んだのである

12月21日 東郷司令長官は連合艦隊解散の訓示を行った」

 

「二十閲月の征戦 己に往事と過ぎ 我が聯合艦隊は今や其の隊務を結了して 茲に解散する事となれり

然れども 我等海軍軍人の責務は 決して之が為めに軽減せるものにあらず

此の戦役の収果を永遠に全くし 尚益々国運の隆昌を扶持せんには

時の平戦を問わず 先ず外衝に立つべき海軍が 常に其の武力を海洋に保全し 一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す

……我等戦後の軍人は 深く此等の実例に鑑み 既有の錬磨に加うるに戦役の実験を以てし

更に将来の進歩を図りて 時勢の発展に後れざるを期せざる可らず

若し夫れ常に聖諭を奉戴して孜々奮励し 実力の満を持して放つべき時節を待たば 庶幾くば以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん

神明は 唯平素の鍛錬につとめ 戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に 一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪う

古人曰く 勝って兜の緒を締めよと

 

「凱旋」
真下飛泉・作詞  三善和気・作曲

目出度(めでたく)凱旋 なされしか
御無事でお帰り なされしか
お国の為に 永々と
ご苦労様で ありました

お送り申した その時は
桜の花が 真盛り
武士の誉だ いさぎよく
散って戻ると 出られたが

散らせちゃならぬ この桜
又咲く春が 来たならば
算盤(そろばん)持って 鍬(くわ)持って
立派に働く 君じゃもの

お天子様へ 御奉公
充分なされた 其の上は
心の中じゃ 御無事でと
朝晩折って 居りました

祈った甲斐か 知らないが
天晴(あっぱれ)敵を 追いはらい
ここに凛々しい 男振り
凱旋姿を 見ようとは

扨(さ)ても思えば 二年振
知らぬ他国の 野に山に
弾丸(たま)の霰や 火の雨や
剣の下を かけめぐり

傷を負うては 二度三度
命の瀬戸を 出入して
君の御為 国の為
戦争されたも 何十度

思えば思えば 永々と
御苦労で ありました
心一杯 思えども
お礼は口じゃ 云えませぬ

お礼は口じゃ 言わないが
これから先は 吾々が
おかげであがった 日本の
名誉はきっと おとさずに

農業工業 商業と
一所懸命 働いて
お国を富ます 心がけ
これがいささか 其のつもり

今日途々(みちみち)に 出むかえて
天晴凛々しい 男振り
凱旋姿の 君たちに
口じゃお礼は 云わないが

両手をあげて 声あげて
万歳唱うる 吾々の
この真心は 山々の
赤い紅葉が 知っておろ

(明治38年)


 

「凱旋軍歌」
乃木希典・作詞  山本銃三郎・作曲



我が日の本の軍人(いくさびと)
強き敵とて何懼(おそ)るべき 弱き敵とて侮りはせぬ
勝ちて驕(おご)らぬ此の心こそ 強きを挫(くじ)くの力と知れや
強きを挫くの力を持てば 弱きを助ける情も御座る
我が日の本の軍人
千歳万歳万々歳 其名を世界に輝かせ

我が日の本の軍人
君と国とに捧げし身には 家も命もなに思うべき
心は石か黒鉄(くろがね)なるか 五条の勅諭を只守るなり
日本魂(やまとごころ)を勅諭で磨き 日本魂で勅諭を守る
我が日の本の軍人
千歳万歳万々歳 其名を世界に輝かせ

我が日の本の軍人
討死なせし其戦友の 巧名手柄を無にしちゃならぬ
国の誉も我が身の幸も
命捨てたる其戦いの 骨を砕きし響と聞けよ 鮮血(ちしお)に染めなす色とも見よ
我が日の本の軍人
千歳万歳万々歳 其名を世界に輝かせ

我が日の本の軍人
軍役終われば故郷に帰り 農工商業皆夫々(それぞれ)に
正しき道に努むる事は 戦するのも心は同じ
家を富ませば国また栄ゆ 和合一致の尚武の心
我が日の本の軍人
千歳万歳万々歳 其の名を世界に輝かせ

(明治38年)


 

「一曲目は 先に出した『戦友』の続編に当る

二曲目は乃木将軍の作詞であるが 曲が平凡な為 後々までは歌われなかったようだ

明治45年7月29日 明治大帝は御崩御あそばされ 9月13日の御大喪のその日

乃木将軍は夫人と共に自決を遂げた

辞世 うつし世を 神さりましし大君の みあとしたひて 我はゆくなり

御一新以来45年 明治の大御世はかくして終わりを告げたのである」

 

「乃木大将の歌」
吉丸一昌・作詞 小松耕輔・作曲

夢より淡き 三日月の
大内山に 消ゆるとき
さきの帝の みくるまは
果のいでまし あらせらる

火砲(ほづつ)のひびき 轟きて
宵闇やぶる 一刹那
乃木大将は おんあとを
慕いまつりて 逝きにけり

忠勇義烈の 大将は
此の世後の世 変わりなく
天(あま)つ御国(みくに)の 大君の
御側(みそば)離れず 仕うらん

遺言十条 読みて見よ
ただ責任を 重んじて
三十五年の その間
死処を求めて やまざりき

私財を家に たくわえず
名誉をひとり 貪らぬ
清き日頃の こころざし
また此のうちに 見ずや人

日露のいくさ 平らぎて
勝鬨あげて 帰る日も
陛下の赤子(せきし) 失いぬ
父老に恥ずと 嘆きたり

国につくすは 臣の道
何をか人に 言うべきと
功にほこらず へりくだる
けだかき心 見ずや人

六十四年の 生涯は
日本の武士の 鑑(かがみ)にて
おわる最後の 輝きは
純美崇高 極みなし

起てよ武夫(もののふ) 武士道の
権化をここに 認めずや
今し鋭心(とごころ) 起こさずば
腰のつるぎに 恥あらん

わが帝国の 同胞よ
鬼神 涙にむせぶべき
この壮烈に 勇まずば
汝の胸に 血潮なし

(大正元年9月)


 

「以上で日露戦争の講義を終了する」

「やたら長かったわね」

「引用が多すぎるから この講座」

「引用がないと成り立たないもんね」

「で 次は何をやるんだ?」

「大東亜戦争終結までということで」

「はやっ」

「大正時代は軍歌がないので省略

昭和になると著作権が残ってる曲が大部分になるので」

「むう」

「まあ 次回はとりあえず息抜きということで

明治大正の唱歌流行歌辺りをさらっと紹介します」

 

 

 

「次回 休み時間『明治大正の唱歌・流行歌』」

「大東亜戦終戦まで後40年」

「脳みそくすぐっちゃうよ♪」

「……」

 

休み時間「明治大正の唱歌・流行歌」を受講する

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