「我が軍は平壌を包囲 9月15日未明より攻撃を加え 翌朝には攻略に成功した」


 

「平壌の戦」
西垣佐太郎・作詞

見るは今宵と昔より 言いにし三五の夜半の月
明日は捨てんと思う躰(み)は 実(げ)にや今宵を限りにて
心にかかる雲もなく 唐土(もろこし)掛けて澄む影を
高麗(こま)の荒野に駒止めて 見渡す空の面白や

(中略)

馬に触るれば人を斬り 人に触るれば人を斬り
倒るる屍踏み越えて 死地に駆け入る壮夫(ますらお)の
疾(と)き太刀風に敵兵は 支えかねてぞ逃ぐるなる
何処(いずこ)を指して走るとも 遁(のが)るる道のあらめやは

一塁砕け二塁落ち 根城と頼む牡丹台(ぼたんだい)
憐れとも見よ白旗は 烟(けむり)の上に閃(ひらめ)けり
されども残る乙密台 さすがに堅き玄武門
高き城塁(とりで)を楯にして 打ち出す丸(たま)の隙もなし

折しもあれや此方(こなた)より 躍り出でたる兵卒の
ほまれは重し身はかろく 攀(よ)じで越ゆるや敵の塁
おどろき惑う清軍が 支うる暇もあらばこそ
死に入る門は開かれて 潮(うしお)の如く進むなり

さしもに深き大同江 流るる水の色赤く
さしもに広き平壌府 死屍(しかばね)ならぬ隈(くま)もなし
砲煙弾雨収まりて 晴れゆく空の夕日影
匂う御旗(みはた)の日の丸の 光りぞ四方(よも)に輝やかん


 

「日本側の戦死は200足らずなのに対し 清側の戦死者は2000にも及んだ

この時 平壌一番乗り 玄武門の勇士として脚光を浴びたのが原田重吉一等卒だ」


 

「原田重吉」
久田鬼石・作詞  「欣舞節」の譜



過ぐる平壌の戦いに 元山朔寧両支隊 破竹の勢い凄じく 進み乗っ取る牡丹台
(中略)
雨より繁き弾丸の 下を潜りて城壁を 猿猴(ましら)の如くに攀(よ)じ登り ヒラリと飛込む其人は これぞ原田の重吉氏
(中略)
古今無双の働きは 実(げ)に干城(かんじょう)の名に恥じぬ 武士の亀鑑(かがみ)と芳(かんば)しき 誉れは子孫に残るべし
欣舞欣舞欣舞 愉快愉快


 

「しかし実際のところ その前に決死隊として突入して生還した者が居たという

当の原田重吉も勇士の重荷を背負ってしまった事で その後 役者にまで身を落としてしまった

詳しい事が知りたければ各自で調べてくれ」

「役者って落ちるものなの?」

「まあ 昭和初期まで芸人は河原乞食と呼ばれる対象だったから」

「ふむぅ」

「平壌攻略の翌17日 ついに日本連合艦隊と清国北洋艦隊が黄海海上に激突した

北洋艦隊は 清が東洋一の堅艦と誇る戦艦 定遠・鎮遠を筆頭に14隻

対する日本連合艦隊は 三景艦と称される巡洋艦3隻 松島・橋立・厳島を筆頭に12隻(旗艦松島)

正午より激しい戦いが始まった

我が海軍は速射砲を活用し有利に展開を進めたが

戦たけなわの頃 旗艦松島に 定遠から放たれた30センチ砲が直撃 乗員の三分の一の死傷者を出した

この直撃で 三浦虎次郎三等水兵は瀕死の重傷を負い

薄れ行く意識の中 近くにいた副艦長 向山少佐を呼び止め 苦しい声で『定遠はまだ沈みませんか』と問うた

副艦長が『心配するな 定遠は発砲の出来ないまでにやっつけたぞ』と答えると

『どうか仇をうって下さい』との最期の言葉を遺し 莞爾と笑みて従容と死に就いた

この逸話も美談として伝えられ 軍歌『勇敢なる水兵』が出来たのだ」

 


松島


定遠

 

『まだ沈まずや定遠は♪』だな で 歌詞は?」

「それはその…… なんだ…… 著作権が……」

「なら仕方ないわね」

「おいらの時と態度違うし」

「何か言った?」

「いいえ 何も言ってません」

「そう ならいいわ」

「6時間にも及ぶ激戦の末 超勇・致遠・経遠を撃沈し 定遠・来遠等に多大な損害を与えた

一方我が方の喪失艦は無し ここに黄海の制海権の帰趨は決したのだ

この大勝の知らせを受け 明治大帝御自らが作った詞に 海軍軍楽隊楽長 田中穂積が作曲して軍歌が出来た」


 

「黄海の大捷」
明治天皇・御歌  田中穂積・作曲



頃は菊月 半ば過ぎ わが帝国の艦隊は
大同江を艦出(ふなで)して 敵のありかを探りつつ

目ざすところは大孤山(たいこさん) 海を蹴立てて行く路に
海洋島のほとりにて 彼の北洋の艦隊を

見るより早く開戦し あるいは沈め又は焼く
わが砲撃に彼の艦は 跡しら波と消え失せぬ

忠勇義烈の戦いに 敵の気勢をうちひしぎ
わが日の旗を黄海の 波路に高く輝かし

功績(いさお)をなして勇ましく 各艦ともにあげ競う
凱歌は四方(よも)に響きけり 凱歌は四方に響きけり

(明治27年)


 

「また この黄海海戦に於いて戦死した坂本少佐を称えて『赤城の奮戦』という軍歌が作られている

さて 議会は臨時予算を承認

10月24日 我が軍は鴨緑江を越えて満洲に到達」


 

「鴨緑江」
山県有朋・作詞 古矢弘政・作曲

あやに畏(かしこ)き天皇(すめらぎ)の 御稜威(みいつ)は四方に輝けり
それにまつろう丈夫(ますらお)が 朝日の御旗ひるがえし
向う軍(いくさ)の鉾先に 崩れぬ敵のあるべしや
如何なる敵か敗れざる 如何なる城か落ちざらん
進めや進め壮夫よ 進めや進め壮夫よ
(以下略)


 

「そして虎山・九連城・鳳凰城と瞬く間に抜き 翌月のはじめには金州城・大連に達した」

「日本が強いのか清が弱いのか……」

「日本が強かったというのもあるだろうが

清が弱かったというのが一番の原因だろうな

そもそも清の兵隊とは言っても 実質は北洋軍閥 李鴻章の私兵であった

対する日本は国民兵だ

国内では定数を上回る志願兵が押し寄せ それは後の戦争の比ではなかったのだ

『清兵3には日本兵1で事足りる』とまで言われたらしい」

「俘虜となった清兵の話では

『作戦上部隊が散開すると 大部分の兵隊はそのまま逃亡してしまう』」

「なにそれ……」

「やる気なしかよ 弱いわけだ」

「敢えて言おう カスであると」

「むう」

「そして11月21日 遼東半島の要害 旅順を1日の内に降したのだ」


 

「露営の夢」
永井建子・作詞作曲



露営の夢を土城子(どじょうし)に 結びもあえず夜の霜
とけかかりたる革帯を 締めなおしつつ起ちあがり
明け残りたる月影に 前を望めば水師営
砲塁高く山々を つらねて待てる旅順兵

待ちに待ちたるこの朝を 二十一日この朝を
最後となしてわれ進む 砲弾雨注のその中を
硝煙地雷のその中を 縦横無下に駆けめぐり
突貫なせばたちまちに 難なく落つる敵の塁

遁(に)ぐるが勝と敵兵が ふりむく後に日本刀
前はすなわち渤海の 船路あやつりあやうくも
後白波と落ち行けば またも打ち出す村田銃
窮鼠却(かえ)って猫を喰(は)む 力もいかであらばこそ

彼が金城鉄壁と 頼みきったる砲台も
端なく落ちて傲頑(ごうがん)の 支那も眠りや覚めにけん
夜寒を語る暁の 風ここちよくひるがえる
御旗(みはた)仰げば尊くも 大日本の旅順口

(明治27年)


 

「さて 旅順陥落の際事件が起こった」


「事件?」

旅順虐殺事件

陥落から4日で非戦闘員6万を虐殺した事件よ」

「あらまあ」

「光栄ある我が陸軍がそんなことするか! チャンチャンめの捏造に決まっているニd!」


「私に言われても」

「でも」

「ん」

「後の調査により出鱈目であったということが判明したの」

「やっぱりそうじゃねえか」

「誤報?」

「プロパガンダだ」


「プロパ……なにそれ」

「思想を帯びた宣伝のことだよ 当然誇張や虚偽の内容もある」


「へぇ〜 ……って知らなかったの私だけなの?」

「みたいね」

「うう……」

「清兵が拘留していた日本人居留民を虐殺し 軍服を脱いで逃走を図った

それに対し発砲したというのが真相のようだ」

「で 支那側が残虐行為があったとして騒ぎ立てたと」

「ふむ」

「その当時の従軍日記によれば……」


 

「従軍日乗」
亀井慈明

旅順口市街戦に於て我軍隊が無辜を殺害し残虐を極めたりと為し外国新聞記者等或は我を目して野蛮と做す者ありと聞く
是れ恐くは当時の事態を知る者の論にあらず
清兵の被服は皆土人と同一のものを着し支那製の長靴を穿ち 其の軍に従う時は上に記章ある法被を被ると雖も
其の敗走するや 悉く軍衣を脱去して道路に遺棄し一見常人の態を為し 其の区別に苦むのみならず
往々商人に仮装して市街の内に潜匿せる清兵等 不意に出て我が軍に抵抗す
(中略)
又旅順の商家皆戎器を蓄え弾薬を蔵えざるはなし 余が宿せし西新街の民家に於ても亦多く銃丸を発見せり
是れ我軍隊が男子は看て以って兵と做し殺戮して遺漏なからしめし所以なり
而して偶々婦女子の害に遭う者あるは誤殺に係る 是れ市街戦に在ては固より怪むに足らざる事と為す
且や李鴻章は旅順進撃の前に当り兵をして一人も遺さず死守すべき旨を訓令せし由なるが
清将は旅順付近の店民に諭して十五歳以上の男子は挙て我軍に抵抗せしめたりと云
(中略)
又日本人が旅順に入りて殺戮を行いたるは疑も無き事実なるが己が確かに目撃したる所にては
尋常戦時に於て有り得べき行為に止まり戦時に於ては怪しむに足らざる所為のみ
(中略)
当時多くの清国兵士は兵服を脱して平人の体を装いたるを以て 旅順近傍の山側は脱ぎ棄てたる軍服を以て充たされたり
従て殺戮されたる死体中には平服を着しながら 腰には半ば消費したる弾薬嚢を帯びたるものあり 平服の下に軍人靴を穿ちたるものありたり
余は日本人を以て旅順の住人総てを敵対と為したりとして非難する能わず


 


 

「解説はこれを証拠に虐殺ありとしてたけど

武器を持って抵抗してきたものを殺したとしかとれないわ」

「民衆であっても抵抗してくればゲリラだからな」

「この写真は?」

「題は『敵屍の埋葬』 まあ解説のほうでは『虐殺を物語る死体の埋葬』になってたけど」

「これじゃあよくわからないな」

「日記のほうにも

『清兵の被服は皆土人と同一のものを着し』『十五歳以上の男子は挙て我軍に抵抗』

とあるし この写真で判断は出来ないわ」

「うーん」

「11月28日付の『ニューヨーク・ワールド』にはこう書いてあるそうよ

『殺戮を逃れた清国人は旅順全市でわずか36人に過ぎない』

「36人って……」

「この時点で怪しすぎます

何らかの事があったとしても 誇張があるのは間違いないわ

1万人説に3万人説そして6万人説

支那だけでなく朝鮮の主張する『日本の残虐行為』にも言える事だけど

とりあえず数を統一して下さい

話はそれからです」

「まあ 兎にも角にも日本は連戦連勝

国民はその知らせに上機嫌だった

日露戦争の話になると決まって反戦論者として出てくる内村鑑三も この日清戦争に於いては

『今や日本国は世界の大国民たらんと欲す』と言い切っている

その頃の演歌を紹介しておこう」


 

「突貫武士」
添田唖蝉坊・作詞作曲



日本男児が国のため 立てよ興れよ正義の軍(いくさ)
雲間遥かに眺むれば 虎伏すあたりに集まる豚尾漢(とんびかん)
行こうか乗り出す軍艦(いくさぶね) 波のまにまに漕ぎ行けば
牙山破れて大同江 命からがら城を捨て
戦(そよ)ぐ尾花にビックリ豚尾漢 支う力もなき九連城
捨てて逃れて奉天府 北京城に泣き出す豚尾漢
ああ 突貫せぇ 突貫せぇ


 

「士気の歌」
久田鬼石・作詞  添田唖蝉坊・作曲



陸に敗北 海には沈んで豚尾(とんび)の軍勢
土地や軍艦 占領(とら)われて それでも懲りずに敵対の
チョイトおかしい から威張

豚尾漢(とんびかん)めが戦争(いくさ)するとは 片腹痛や
及ばぬ敵対 止めにして 故園(くに)へ帰って豚小屋の
チョイト掃除をするがよい

うどの大木 辮髪頑奴(ちゃんちゃんぼうず)の総身に知恵が
廻り兼ねたる負軍(まけいくさ) りこうしょうなるいでたちも
チョイトめっきの剥ぎ取られ

法螺で堅めた辮髪頑奴の 軍勢原を
喇叭一声撃破る 忠肝義烈の軍人に
チョイト輝く金鵄章(きんししょう)


 

「これらの歌を作ったのが演歌師 添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)だ」

 


添田唖蝉坊

 

「……(あらまあ)」

「……(どこかで見た顔だな)」

「ん どうしたのだ?」

「いや なんでも……」

「うん なんでもない……」

「そうか では続けるぞ

12月14日 山東半島の要衝 威海衛への攻撃命令が発令された

そして翌明治28年2月2日 ついに威海衛の占領に成功する


 

「雪の進軍」
永井建子・作詞作曲



雪の進軍 氷を踏んで 何処(どこ)が河やら道さえ知れず
馬は斃(たお)れる捨ててもおけず 此処(ここ)は何処(いづく)ぞ皆敵の国
侭(まま)よ大胆 一服やれば 頼み少なや煙草が二本

焼かぬ乾物(ひもの)に半煮え飯に なまじ生命のある其の内は
堪え切れない寒さの焚火 煙い筈だよ生木が燻る
渋い顔して 功名談(こうみょうばなし) 粋(すい)と云うのは梅干し一つ

着のみ着のままゝ 気楽な臥所(ふしど) 背嚢枕に外套(がいとう)かぶりゃ
背なの温みで雪融けかかる 夜具の黍殻シッポリ濡れて
結びかねたる露営の夢を 月は冷たく顔覗きこむ

命捧げて出てきた身ゆえ 死ぬる覚悟で突喊(とっかん)すれど
武運拙く討ち死にせねば 義理に絡めた恤兵真綿(じゅっぺいまわた)
そろりそろりと首締めかかる どうせ生かして還さぬ積もり

(明治28年10月)


 

「作者 永井建子は 威海衛攻略戦に軍楽隊員として従軍

この軍歌はその行軍の苦労を歌ったもので 反戦歌のような内容だ

特に4番は

「命を捧げて出てきた身であるから突撃はするが どうせ生かして還すつもりなんてないのだろう」

という歌詞であり しばしば最後の「どうせ生かして還さぬ積もり」は「どうせ生きては還らぬつもり」と変えて歌われ

大東亜戦争に突入すると歌唱禁止となってしまった

この様な歌を軍人が作った時代の気風も推し測るべきであろう」

「余談になるけど

日露戦争に於いて総司令官を務めた大山巌元帥は この歌を好み

今際の際にはレコードをかけさせたそうよ」

「さて 陸軍は威海衛要塞の奪取に成功し

残るは威海衛に潜みし北洋艦隊のみである

そこで我が海軍は2月4日 水雷艇による夜襲を敢行した」


「水雷艇?」

「魚雷を積んだ小艇のことよ」

「なんでそんなこと知ってんだよ……」

「さあ」

 

「水雷艇の夜襲」
大和田健樹・作詞 納所弁次郎・作曲



月は隠れて海暗き 二月四日の夜の空
やみをしるべに探り入る わが軍 九隻(くせき)の水雷艇

目ざす敵艦沈めずば 生きて帰らじ退かじ
手足は弾に砕くとも 指は氷にちぎるとも

朧げながらも星影に 見ゆるは確かに定遠号
いで一うちと躍り立つ 将士の心ぞ勇ましき

忽(たちま)ち下る号令の もとに射出(いいだ)す水雷は
天地も震う心地して 目指す旗艦に当りたり

見よ定遠は沈みたり 見よ来遠は沈みたり
音にひびきし威海衛 はや我が物ぞ 我が土地ぞ

ああ我が水雷艇隊よ 汝の誉は我が軍の
光と共に輝やかん かかる愉快は又やある


 


威海衛作戦

 

「その結果 来遠・威遠の撃沈に成功

9日には靖遠を撃沈し 定遠は自爆し没した 鎮遠は捕捉され ここに北洋艦隊は壊滅したのだ

丁汝昌(ていじょしょう)提督は李鴻章に対し

『艦沈み人尽きて後已まんと決心せしも衆心壊乱 今や如何ともする能わざる』

と電報して 毒をあおって自決した

日本連合艦隊 伊東祐亨提督はその死を悼み 没収していた康済号をもってその棺を送らせたという

チャンチャンだ豚尾漢だと馬鹿にする一方で

敢闘した敵将を称えるという精神があったことも忘れてはならない」


 

「丁汝昌」
鉄石浪人・作詞  「欣舞節」の譜



花は散れども香を残し 人は死しても名を惜む 堂々五尺の大丈夫(ますらお)が いかで瓦全(かぜん)を計るべき
流石(さすが)北洋艦隊の 指揮に当りし丁汝昌 竜虎猛れる我軍が 前後腹背合撃の 四面楚歌なる其中に
屈する色も荒濤(あらなみ)を 蹴上げ蹴立つる鎮遠に 怯む味方をはげましつ 死憤極めし最後の軍(いくさ)
弾丸黒子の劉公島 サイ爾微々たる日嶋を 保ち来りし十余日 今は剣折れ弾尽きて 末路悲しき古今の習い
白旗揚げたる降伏に 救う数千の生霊の 先途見届け今はしも 万事止めりと潔く 毒を仰ぎし健気の自殺
続いて殉ぜし劉歩蟾(りゅうほたん) 張文宣(ちょうぶんぎ)等を始めとし
恥を知りたる武士(もののふ)が 果敢なくなりしぞ憫(あわ)れなる
敵(かたき)ながらも悼(いた)ましく 涙に脆(もろ)き英雄が 礼を守れる弔砲に
贈る情の康済が 載せし誉の屍と 姿変りし丁都督 死所を知りたる振舞は 真に壮烈嘆美の至り
欣慕欣慕欣慕 名誉名誉


 

「さて 我が軍は3月10日に田庄台を制圧

ついに 同月20日より下関において講和会議が始まった

かくして4月17日

清は日本に対し 遼東半島・台湾・澎湖島の割譲と賠償金2億両

そして朝鮮の独立を承認するという条件で講和が成立

こうして日清戦争は日本の勝利に終わったのだ」


 

「新日本」
久田鬼石・作詞  「欣舞節」の譜



東亜細亜の強国と 深く任ずる我国の 人も一度欧米に 漫遊なしたる其時に
日本は支那の属邦か 日本人も豚奴(ちゃんちゃん)と同じ種族(なかま)と軽蔑(あなど)られ 悲憤慷慨常ぞかし
(中略)
征清軍の勢は 陸には満洲蹂躙(ふみにじ)り 海には黄海占領し 古今稀なる大勝利
剛腹自尊の碧眼奴 今は昔に引かえて 文明富強と誉め称え 媚びて諂(へつら)う有様は 真に愉快じゃないかいな
欣舞欣舞欣舞 愉快愉快


 

「別に媚び諂った覚えはないけど」

「まあ 気にしちゃ駄目」

「うーん……」

「以上で日清戦争の授業を終了する」

「有難うございました

どこぞの自称日本人と比べてわかりやすかったです」

「まだ言うか……」

「時に」

「ん」

「中学校で日清戦争をこんなに細かくやるの?」

もちろんやらないわよ」

「やっぱり」

「実際の中学の教科書での扱いはどんなものなんだ?」

「えっと 某年度の東京書籍では……

『8月に日清戦争が開始された 戦いは日本の勝利となり1895年4月下関で講和条約が結ばれた』 以上

「短っ!」

「前後の事ならもうちょっと書いてるけど

因みに『新しい歴史教科書』は4行分でした」

「むう」

「だって 地味に政治史やってもつまらないし」

「一理あるけど……」

「まあ 一番の理由はこれを企画した人が軍歌気狂いだからだと思うわ」

「むう」

「では休憩に入ります」

「次は?」

「当然 日露戦争」

 

 

 

「次回 3時間目『日露戦争〜ここは御国を何百里〜』」

「大東亜戦終戦まで後50年」

「今 運命の扉が開く」

「そんなものありません」

 

3時間目「日露戦争」を受講する

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